斜め上からナスコ

言わなくてもいいことを言いたい

我が青春、嵐と共にあり

 

 

ドンピシャ嵐世代です。明日は会社休みます。(笑)

 

 

 

思えば 我が青春、嵐と共にあり。

 

小学生の時、校内放送で死ぬほど流れていた嵐の曲。

音楽の先生に懇願して、音楽の授業中に、合唱曲以外で何でも好きな歌を歌っていい時間を設けてもらった時、みんなで歌ったのはやっぱり嵐の「Happiness」と「Love so sweet」だった。【向かい風の中で〜 嘆いてるよりも〜】と口ずさむと思い出すのは、音楽室と当時好きだった男の子。なんて良い思い出!

 

高校受験に苦しむわたしを強めてくれた「ワイルドアットハート」。

【一度きりの人生 転がるように 笑って泣いて生きていこうぜベイベー】という爽快な歌い出し。スタンドマイクを蹴り飛ばすライブパフォーマンスが、かっこよくてたまらなかった!!

 

 

熱狂的なファンでもないけれど、大抵の曲は歌える。

語り出せばきりがない。

 

 

この度の報道はかなり衝撃的だった。なぜかどこかで「嵐は終わらない」という謎の確信があったからだ。人気が低迷しているわけでもなく、メンバーの仲が険悪なわけでもなく、なんの予兆もなかったのに、もはや当たり前の存在、一般常識的な存在である嵐が、突然姿を消すことになったからだ。それはまるで、子供の時からずっと一緒だった飼い猫が突然 失踪した時のような気持ちである。帰宅するといつも当たり前のように出迎えてくれたのに、テレビを観ていると膝の上に乗って眠っていたのに、ある日突然消えてしまった猫だ。生きているのか死んでいるのか、いつ帰ってくるのかもう帰ってこないのか、何もわからない。「解散」ではないものの、「活動休止」という言葉にはどこか不安を覚える響きがある。

 

 

ニノの言葉に「僕らはいつまでも嵐」とあったけれど、そこにとてつもない嵐らしさを感じる。バラバラになるのではないという全員一致の考えが、嵐の絆の強さを思わせる。彼らにとって「嵐」というグループのメンバーであるということは、もはや肩書きや立場というよりも生き様なのだと思う。簡単に脱いだり着たりできるものではなく、例えばリーダーが「大野智」という名前であるのと同じように、一生背負っていくもの、そう覚悟しているのだと。それも当然だ、国民的アイドルとしてここまで登り詰め、築き上げたのだから。だからこそ、今回のことを涙ながらに「申し訳ない」と言う。

 

でも「普通の生活」がしてみたいという願いは、健全だとわたしは思う。そしてそうする権利もある。ただ、彼らがこれから「100%の普通の生活」をするは恐らく不可能だ。なぜなら彼らは「いつまでも嵐」だからだ。活動を休止したとしても、たとえ芸能界を引退したとしても、「嵐」であることは付きまとう。それはどうしようもない事実。いわば覚悟の代償だ。それでも彼らなりの「普通の生活」をぜひ味わって欲しいし、楽しんで欲しい。

 

仕事とはいえ、それ相応の給料をもらっているとはいえ、お金が全てではない。その点でこういう業界のアイドルやアーティストたちがファンに与えるものの大きさは計り知れない。たぶん人間の限界を超えている。いわゆる「お金では買えないもの」をたくさん犠牲にしている。大きく言うと、時間とか家族とか愛とか。普通の人が普通に手に入る幸せが、ずっとお預けの状態なのだ。それを欲することは何か間違っているだろうか。自然で健全な欲求ではないか。だから、きっとそういうものを取り戻した時、やっと彼らは人間になれると思う。これまで与え続けてきた分、今度は自分たちが受ける側に回って欲しい。人間として受けるべきものを受け、手に入れるべきものを手に入れ、人間らしく生きて欲しい。

 

 

それが、これまで嵐からたくさんもらってきたわたしの願いだ。