斜め上からナスコ

言わなくてもいいことを言いたい

尖ってると言われた

 

 

 

この間、先輩から「〇〇は尖ってるからなぁ」と言われた。

その先輩というのはいつもお世話になっている人で、好きだし尊敬もしている。そんな先輩から言われた「尖っている」という言葉が、どうにも頭から離れなくなった。

 

 

 

「尖っている」と聞いて普通はどんな印象を受けるか。マイナスイメージが強いか。それともカッコイイか。ネットで検索しても、人格的な意味での「尖り」という言葉に正確な定義はない。要するに俗語だ。だからわたしは勝手に「尖り」という言葉を次のように定義する。

他人からの評価を気にしたり、迎合したりしないこと。自分の価値観や信念が明確でそれを曲げずに生きている様。

 

さて、この定義を当てはめるとするならば、わたしはこれまで「尖り」とは無縁な人生を送ってきた。幼い頃からわたしの関心事は常に「他人から好かれること」だった。かといって人気者になりたいと思ったことはない。目立つことは嫌いだし、人前に出るのも苦手だ。つまり、わかりやすく言い換えるならば「誰からも嫌われないこと」をモットーに生きてきた。それが最も上手な生き方だという確信があったからだ。習字の授業で「好きな四字熟語を書きましょう」となった時に、「八方美人」と書こうとして止められたほどである。「八方美人」は良い意味の言葉だと思いこんでいた小学5年生のナスコである。

 

誰にでもいい顔をして、誰の意見にも同調している自分は、優しくて協調性があり柔軟でみんなから好かれる自分だ、と信じていた。反対意見を言ったり、友達とぶつかったりする子は扱いづらくて嫌われる。特に学校という小さな世界では。とにかくみんなに合わせることがわたしにとって一番安泰な道だった。そしてそれができる自分は有能だと思っていた。なんと浅はかな知恵で生きていたことか。

 

だけどどこかで気づいてもいた。裏を返せば「流されやすい人」「優柔不断な人」「都合のいい人」。結局は信頼されない人だと。他人と正面から向き合えない弱い人間だと。成長するにつれて、今まで自分の強みだと思ってきたモノの裏面が徐々に存在感を放ち始めたのだ。だんだん自分に嫌気がさしてきた。高校生になった頃にはもう、そんな自分が大嫌いで自信など皆無だった。だいたい高校生にまでなると「みんなと同じでなければならない」という独特の学校ムードというものは、徐々に薄まってくる。中学生の時よりももっと多種多様な人に出会う。長ーいスカートを履き続けている人。自分の好きなことをひたすら極めている人。敢えて空気を読まない人。そうした人が排除される傾向は未だ残っているものの、彼らの立場は確実に認められ始めてくる。世の中にはいろんな人がいる、それをいちいち捕まえてからかったり虐めたりするのはもう幼稚なことなのだと、(健全な精神年齢を重ねている子たちなら)気づきはじめる。

 

それでもわたしは、今まで築き上げてきた「誰にでも合わせる自分」をもはや簡単に変えることなどできなくなっていた。むしろ「誰にでも合わせられる自分」が「誰かに合わせることしかできない自分」に成り下がってすらいた。空気を読まなかったら電流が流れるシステムでもあるのかというくらい、空気を読むことに全神経を集中させて生きていた。だからわたしは憧れた。いわゆる「尖っている人」に。自分が他人からどう評価されるかということなど一切気にせずに、自分が思ったことを率直に言ったり行ったりできる人に。自分を信じろ、とか簡単に言うけれど、わたしにとってそれはすごく難しいことだ。

 

 

 

前述の通り「八方美人」が上手に生きる方法だと思い込んでいたわたしだったが、その「上手な生き方」というものの定義が年を重ねるにつれて変わってきた。小学生の時からわたしが目指していた自分像は、思えば最も苦しい生き方だったと言っても過言ではない。そう思うようになってから、誰かから嫌われることになっても自分は自分の信念に沿って生きることにした。とは言っても簡単ではない。そもそも何年もの間「他人の信念」に寄りかかって生きてきてしまったため、自分の中にある「信念の書」をしばらく開いていたなかったのだ。開いていないどころか、どこにいってしまったのかもさっぱり分からない状態で、あちこち探してようやく屋根裏部屋で埃をかぶっている姿が発見されたという具合だ。

 

まずは自分の信念とは何か、そこから始めた。そもそも自分とは何か。哲学者かよ。とツッコミたいところだが、本来ならばもっと早くこういうことを考えておきたかった。21とか22になってようやくそこまで辿り着いたのだから、まぁだいぶ遅いスタートを切ったものだ。嘆かわしいけれど時間は戻せないので嘆いても仕方ない。

 

迎合、傾倒、同化、彼らがいわばわたしの「いつメン」だったのだが、お別れすることにした。自分のやりたいことをやろう、やりたくないことは断ろう。自分で考えて自分の意志で決定しよう。正しいと思うことには正しいと言い、間違っているということには間違っていると言おう。人から好かれようと必死になるのはやめよう。自分は自分でいていいと、自分を許してあげよう。それを意識して生活したら、前よりも随分 自分を好きになれた気がするし、いろいろなことが楽になった気がする。もちろんこれは、これからもずっと努力し続けていかなければならないことだ。

 

 

 

冒頭に出てきた先輩は、すごく人間味があって好きな人物だが、わたしにとって強い影響力のある人で、人を使ったり動かしたりするのも上手い。たぶん自覚はないのだろうが、圧のようなものをかけたり空気を読ませようとしたりもする。要望に答えると、ものすごく感謝されるし褒められる。彼の魂胆は知らないが、とにかくわたしとはまるで真逆のような人だ。そしてわたしはこういう影響力のある人に弱い。すぐに流されて、自分の本意ではないのにその人の言いなりになっていることがある。だからもし前の自分だったら、ただただされるがままになっていたかもしれない。でも今のわたしは、できないことはできないと言えるようになってきた。できないと言って残念な顔をされても、耐えられるようになった。

 

そして先日その先輩から「〇〇は尖ってるからなぁ」と言われた。人生で初めて「尖っている」と言われた。これまで尖るどころか、曲線の滑らかな低反発まくらみたいに、仙台銘菓 萩の月みたいにフワフワ生きてきたわたしが、ついに「尖っている」と言われた。たぶんあの時の話の流れからして、この発言は打算のない先輩の本音だ。

 

 

 

わたしは尖った。

嬉しかった。