斜め上からナスコ

言わなくてもいいことを言いたい

月並みの感想ですが

 

 

 

ミッションを果たすため命を懸ける男たちが見たいなら今すぐ映画館へ。

 

サラリーマンが見たいなら「七つの会議」、ホテルマンが見たいなら「マスカレード・ホテル」、

「アクアマン」を見て海に行っても良し、はたまた「ファースト・マン」で宇宙へ行っても良し!!

 

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ライアン・ゴズリング、睫毛なげーーーーーー!!!!

っていうことで「ファースト・マン」観てきました。やっぱりわざわざ映画館に出向くならこういうスケールのでかい、お金掛かってる映画を選ばなきゃね。という、とても映画好きとは思えないケチくさい感想。良かったー。宇宙映画やっぱすごい(語彙力のなさ)ほぼCGのヘタなSFアクションなんかよりずっと迫力あってテンション上がる。といってもこの映画もCG技術の塊だとは思うけれど、ノンフィクションともなるとやはり桁違いのリアリティ。まぁ疲れた。

 

宇宙映画といえば「ゼログラビティ」を観た時もヘトヘトに疲れた記憶があるなぁ。あれも文字通り手に汗握って観ていたもんだけど、今回の「ファースト・マン」はまた全然 趣が違う作品でした。「ゼログラビティ」は作中ほぼずっと1人で宇宙を浮遊して最終的に命からがら生還する話なので、こちらまでずっと宇宙空間にいるような気がしてきて息がつまるのだけれど、今作は今作で何年にも渡る期間の中で何回も宇宙に行くシーンがあるから、それはそれで疲れる。振動がやばい。軽くむち打ちになったもんなぁ。2Dでしたけど。

 

そもそも「ファースト・マン」は事実をそのまま描き出している作品なので、ただのスリル系宇宙映画ではなく伝記的な作品でした。アメリカの宇宙開発の歴史そのものという感じです。いやそこまで言うと大げさかな。とにかくニール・アームストロングという人物とその家族に大きく焦点を当てていて、同時に月面着陸計画の事実と当時の社会状況をそのまま描いているので勉強になりました。結局のところ宇宙開発も一種の戦争で、宇宙飛行士とは国の志願兵なのだなと感じました。素人目から見れば、月に初上陸して半世紀近く経った今になっても、別に月旅行は当たり前になっていないし、月にたどり着いたことで人類が何か大きなメリットを感じているわけでもないのですから、そんなに犠牲者を出してまで慌てて月面に立つ必要はなかったんじゃないかと思ってしまいます。命を懸けて関わった人たちには失礼な言い方ですけどね。でも結局 原動力となってるのは競争心なんだなぁと思ってしまいます。ソ連に負けるわけにはいかなかった。負けないためなら人命もお金も容赦なく注ぎ込むというのが「戦争」ですからね。宇宙戦争ですわ。当時だけじゃなくて今もそうなのかなぁ。

 

 

それにしても学のない現代っ子ナスコちゃんですから、月に初めて行った人の名前なんて知らなかったです。アームストロング?あ、芸人?今は解散して、片割れがとにかく明るい安村さんですよね。とかいうゴミカス程度の知識しかございませんでしたもので、深く深く反省しております。いつも思うんですけど、宇宙飛行士になる人の肉体とか精神力とかってもう、凄すぎて想像できないというか、同じ人間と思えないんですよね。なんかメンタルとかどうなってんのかなとか思ってたんですけど、今回のニール・アームストロングを見て思ったのは、あ、普通の人間なんだ。ってことでした。娘を亡くし、仲間を亡くし、その度に絶望に落とされる。やはりいくら宇宙を相手にしていても、死に慣れなどないのですね。普通の人間、普通の家族が、全く普通じゃないことをしようとしていることに変わりはないのです。

 

 

そしてニールの妻ジャネットの強さたるや。ひょっとしたら妻のほうがニールの100倍メンタル強いかもしれん。自分の夫が自分と子供達を置いて訳の分からない宇宙空間へ飛び出し、あの小さな月の上に乗っかっているなんて想像することもできない。この映画は特に家族の姿がものすごく生々しかったです。ある印象的なシーンは、NASAで地球のお隣の星である月を目指すことついて講師が熱く語っている真っ最中、新居のアームストロング家にはお隣の家の奥様が訪ねてきて、お引越しのご挨拶を交わしているというシーン。両場面が交互に入れ替わる演出が面白かったです。あの対比。お隣同士の2組の家族、いたって普通の家族だけど、どちらも夫や父親を月というお隣の星に送り出さなければならないという普通じゃない状況。強くなる訳よ。アポロ11号が月に経つ前夜の場面も涙なしには観られない。

 

 

とにかく、ライアン・ゴズリング目で演じる男よ。155分の8割が目演技。目俳優。娘が死んだ時の目。宇宙空間で船の高速回転が止まらなくなった時の気を失う寸前の目。仲間の訃報を電話で受けた時の瞬き一つしない目。発射前の船内の小窓から月を真っ直ぐに見つめる目。ところが肝心のシーンで彼の目は映りません。月に自分の足で降りた瞬間や、月面に立ち尽くしている時の表情は映らないのです。なぜならヘルメットで隠れているからです。(眩しくないように真っ黒に塗ってあるので、少しも表情が見えない)

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目すら映らない、顔すら映らなくても彼の表情が手に取るようにわかるのは、それまでの印象的な目演技のおかげ。ゆえに目俳優。アカデミー主演目演技賞があるならダントツで受賞。あと忘れちゃいけないのは睫毛な。超長いよ。船が月面に降りる瞬間の一か八かの緊迫したシーンなのに、ライアンがアップになる度に「睫毛なげ〜〜〜これでも男なん?」とかいう緊張のかけらもない不謹慎なことしか考えていなかったナスコは、宇宙どころか地上で生活してても生命を維持するの危ういと思います。

 

そしてクレア・フォイ。彼女も目で語る役者でした。強さも弱さも目だけで表現してしまう。凄いです。なんといってもラストシーンが圧巻。台詞が一つもないのに、目と表情と動作だけの数分間でこの映画のラストシーンにふさわしいクオリティの感動を完成させている。お涙頂戴じゃなく、計算もない、本当にただ夫婦の自然な姿というか、あんまり言うとネタバレかしら・・・とにかく想像していた再会シーンとは違ったから、おそらくこれがリアルなんだろうなというか。行き先が宇宙ともなると、しかも何度も行った人と何度も送り出した人の立場からするとこういう再会の仕方をするんだなぁと。超越していた。しかしこのあと離婚するんですね、この2人。あれま〜。

 

 

ライアン・ゴズリングクレア・フォイが初共演の割にはあまりにも本当の夫婦にしか見えなくて、おいおいこの2人の演技力どうなっちゃってんだよって思ってたら、どうやら撮影の2,3週間前から、実際に撮影に使う家で共同生活を送って役作りに励んだそうですよ。もちろん子役の2人も含めて。凄いですねぇ。なんせこの「ファースト・マン」は、同監督作品「ラ・ラ・ランド」よりも前から練り始められていたようで、かなり時間かけて作られた映画みたいですから。それしてもデミアン・チャゼルって何者なの!?太鼓の鬼教師映画(言い方)やったと思ったらポップなミュージカルやり、かと思えば今度は宇宙て・・・どこまで手広げんの!?まだ34歳だってさぁ!あと多分だけど「ファースト・マン」の音楽担当した人が「ラ・ラ・ランド」と同じなんだよね。全っ然 雰囲気違ったけど。まぁそんな感じで、とにかくデミアン作品には今後も期待したいと思いました!

 

 

宇宙旅行に疲れ果て、お腹も空いたので帰り道に松屋に寄りました。

空気と音と重力と牛丼があるこの地球の素晴らしさに感謝。

 

 

 

 

 

 

 

ブラックコーヒーが甘い

 

 

 

ザブングル加藤が1時間に1回泣かなきゃいけない生活をしたら・・・なんて検証はどうでもいいから、もっと有益な検証をしてほしい。例えば、パックご飯を毎日食べて暮らすのと、8枚切り79円の食パンを毎日食べて暮らすのはどちらが体に悪いか。とか。(真面目か)

 

まじでこれ気になるんだよなぁ。たぶん大差ないんだろうけど。毎日食べ続けているものって怖いなぁとか、何気に健康に気を遣いたいナスコです。今のところわたしは後者なんですけどね。パックご飯って普段買わないので。米はあるんですけど、米って炊かないと食べられないんですね。当たり前ですけど。だからといって毎日パックご飯?それはそれでなんか体に悪そう。コスパも悪そう。そう考えると食パンって優秀ですよね。別に焼かなくても、チンしなくても、何もつけなくても食べられる。究極に面倒な時はそのまま食べればいいだけ。仮にガスと電気と水全部止められても食べられる。それが食パン。ゆえに優秀。でも、8枚切り79円の食パンを毎朝食べて10年続けたら、なんか、なにかしら体に悪いものが残ってそうじゃないですか?だからザブングル加藤さんは泣かなくていいから、とりあえずこれから毎日安い食パン食べ続け、松尾さんは毎日一番安いパックご飯を食べ続けてほしい。それを10年続けた後、2人で健康診断を受けるという検証をしてほしい(酷い)

 

 

 

最近自分の口の中が常に、酸っぱいとも苦いとも言えない、なんだか金属っぽいような感じの味で満たされています。気持ち悪さを消すために、いつも飴を舐めたりガムを噛んだりしてしまうんですけど、この間突然 同僚がわたしに「さすがだわ」と言うから何かと思ったら、「あなた、上司と大事な話してる時にクチャクチャガム噛んでるんだもん。大物だわ」と引き気味に言われました。やってしまった。完全に無意識だった・・・

 

 

この味の原因はなんだろうと思ってネットで調べてみたら、いろいろヒットしました。まずは口内環境の悪さ。歯磨きを怠ったり、ちゃんと磨けていないと、雑菌が増えて味覚障害を起こすことがあるらしいのです。舌の味蕾にゴミが溜まって味覚を感じにくくなる「舌苔(ぜったい)」とかいう超気色悪いネーミングの病気があるとか。(説明が合ってるか分からないけど多分そんな感じ)しかしこの病名考えた人 凄いわ。「あなたは舌苔です」とか言われたら今すぐ治したくなるもんこんなん。気色悪すぎて。

 

とはいえ、生まれてこのかた虫歯にも歯肉炎にもなったことのないわたしは口内環境には自信があります。ちゃんと毎日歯磨きしてるし。結構丁寧に。それでもなんだか気になったので、殺菌作用があるという塩磨きをしてみることにしました。本当にただただ塩で歯を磨くという。そんなんめちゃくちゃしょっぱいだろ、って思ってたけど意外とそうでもないです。歯磨いてる間って、無意識に舌を奥に引っ込めてるんですよ、わたしたちって。優秀。なのでいまナスコ邸の洗面所には、小皿に盛られた塩があります。この間用があって家に兄が来たんですけど、洗面所から出てきた兄が「おまえさ、あれなに・・・お清めの塩?この家なんか出んの?」と震えてました。

 

 

ところが塩磨きをしばらく続けてみたものの、今のところあまり効果はなく。そして今朝びっくりすることがありました。普通にいつも飲んでいる美味しいインスタントのポタージュスープが、今朝はめちゃくちゃ不味かったんです。なんとも言えない変な味が。スプーンの味?みたいな。木のスプーンなんですけどね。それと、いつも食べてるスライスチーズを載せた食パンも、なんだかチーズの味がものすごい強く感じて。極め付けはブラックコーヒー。甘かったのです。ブラックなのに。砂糖入れたっけ?ってくらい甘かったのです!びっくり。変だなぁと思いながら仕事に出かけたんですが、お昼ご飯は普通だったので安心しました。ちなみにお昼はお好み焼き。めっちゃ美味しかった。よかった。

 

 

 

他の原因としては、亜鉛不足でも口の中が変な味になることがあるとか。亜鉛・・・じゃあ牡蠣食えばいいんか?みたいな知識しかないですけど。カボチャとかもいいらしい。そういうのを食べてみようかな。もう少し様子見て、変なことが続いたら病院行ってみようかなぁと思ってますが、一体何科に受診するのか・・・よく分からないですね。そんな近況でした。

 

 

 

パーソナリティごっこ

 

 

 

最近、ラジオパーソナリティごっこが流行っています。

 

ルールは簡単です。まず曲をかけたら、イントロが流れてる間に気だるそうな感じで喋りましょう。

「まぁ〜ね〜インフルエンザはね〜怖いですからね〜。皆さんも気をつけてださいね。じゃあ〜今日も最後までよろしくお付き合いください。」とかなんとか。そして歌い始める直前で、曲のタイトル紹介です。「じゃあ曲行きましょうか。えー、ASIAN KUNG−FU GENERATIONで、夜を越えて。」ここで、バチっと後藤さん。うぉんがくはあまりに無力なんてぇクリシェに酔っても〜。です。カンマ1秒の差なく綺麗に曲に入れたら大成功です。歌い出しにかぶったらパーソナリティ失格だし、逆に早く言い終えてしまうと妙な間が空いてカッコ悪い。歌い出しの直前まで喋る。これがうまく言った時の気持ち良さね。言葉にできない。

 

本当にこの曲はうまく行くと気持ちいいから。アジカンの「夜を越えて」はおススメ。イントロ長めのやつがいいですよ。他のおススメは、GOING UNDER GROUNDね。思春期のブルースとかいいよ。もうこうなってくると、バンド名の語感がカッコイイだけなんじゃないかって話になってくるけどね。歌い出す直前に長いバンド名を言い切るスリルを味わいたいだけっていうね。

 

 

 

二月になりましたけども、皆様は何か変わったことはありましたか?わたしはいつもと変わらずに過ごしてます。とにかくやる気が起きないです。いつも通り。季節の終わり頃というのはそれに拍車がかかります。本当、病気かなって疑うくらい何もやる気が起きません。この文だって、もう嫌で嫌で仕方ないけど書いてますよ(じゃあ書くなよ)

 

 

この間の金曜日は久しぶりの午後休で、昼に仕事が終わってそれっきり丸々休みだったので、どこかに出かけようって前々から決めていたんですよ。映画を観に行きたかったのと、お風呂に浸かりたかったのとで、映画館と銭湯に行こうと決めて。わたしはいつも映画館に行こうと決めてから何を観るか決める派なんですけど、調べてみたら公開中の映画がどれもイマイチで・・・。強いて観るなら「マスカレードホテル」かなぁとか思って。渋谷でちょうどいい時間でやってたのでそれに決めて。そのあとちょっと歩いて中目黒にある銭湯に行こうと計画を立てたわけです。

 

まぁでもけっこうその予定が楽しみで、一週間待ってやっと迎えた金曜日当日。お昼すぎに仕事から帰宅して、一息ついてから着替えて、荷物をまとめて、さて行くかとなった時にはなんかもう既に疲れ始めていて。あれ?ってなって。なんか、別に観たいわけでもない映画をわざわざ電車に乗って観に行くかなぁ、とか思い始めて。でもお風呂は入りたいしなぁ〜 だとしたらもっと近いとこあるかぁ、でもせっかく楽しみにしてたんだから行かなくちゃ。え?待てよ。行かなくちゃって何?くちゃって何?そこまでして自分を連れていくような大事な予定か?とかなんとか部屋で悶々と考えていたら、映画の時間過ぎてました。やばいですよね。

 

一人で出掛けるのは好きなんですけど、こういうことがまぁよくあるんですよね。誰と約束しているわけでもなく、先にチケット買ってるわけでもないとなると、もうただの自分との約束だから必ず守る必要性がないんですよね。上着まで着てリュックも背負いかけていたけど、ホットカーペットの上に座り込んだままお尻の温かさに負けたナスコでした。なんか悲しかった。別にいいけど。行きたくないのにお金使って行く必要もないんだし。それでもなんか煮え切らず、変な気持ちになって不貞腐れて寝て、起きたらもう夜の6時くらい。コンビニでパスタソース買ってきて、パスタ茹でて食べました。妙にお腹が空いてたんで、ボール一杯分のたらこパスタを。変な一日だったな。

 

 

 

それと最近変わったことといえば、ポケットWi-fiを購入しました。今までは某格安SIMのギガ放題みたいなプランでやってたんですけど、なんとなく通信料を節約したいなと思い立ち、安くて多少ギガ容量も大きいポケットWi-fiのみで暮らしてみることにしました。だから今どこへ行くにもルーターを持ち歩いています。これぞ、歩くWi-fi。もう体にSIMカードが内蔵されたも同然です。ただ、ルーターのバッテリーが切れるとオワリです。電話しかできない。一瞬で昭和の人と同レベになれる。そこさえ気をつければ、けっこう快適です。途切れることもないですし。さぁWi-fiに飢えてるそこのあなた、どうですか?わたしのそばに来ればWi-fi使えますよ。今なら月額1200円でずっとそばに居てあげます。

 

 

・・・ちょっとなにいってるかわかんないですね。自分でも言ってて気分悪くなってきたので、この辺で終わりにしときましょう。1時間お付き合いいただきありがとうございました。さっ。今日はこの曲でお別れです。official髭男dismで、されど日々は。

 

されど日々は

されど日々は

 

 

 

【ワンポイントアドバイス

ラストの曲はしんみり系を選ぶのがポイントです。ちなみに、この曲は歌の入りを掴むまでが難しいので気をつけましょう。それにしてもまた、バンド名の語感で選んでしまいましたね。

 

 

 

尖ってると言われた

 

 

 

この間、先輩から「〇〇は尖ってるからなぁ」と言われた。

その先輩というのはいつもお世話になっている人で、好きだし尊敬もしている。そんな先輩から言われた「尖っている」という言葉が、どうにも頭から離れなくなった。

 

 

 

「尖っている」と聞いて普通はどんな印象を受けるか。マイナスイメージが強いか。それともカッコイイか。ネットで検索しても、人格的な意味での「尖り」という言葉に正確な定義はない。要するに俗語だ。だからわたしは勝手に「尖り」という言葉を次のように定義する。

他人からの評価を気にしたり、迎合したりしないこと。自分の価値観や信念が明確でそれを曲げずに生きている様。

 

さて、この定義を当てはめるとするならば、わたしはこれまで「尖り」とは無縁な人生を送ってきた。幼い頃からわたしの関心事は常に「他人から好かれること」だった。かといって人気者になりたいと思ったことはない。目立つことは嫌いだし、人前に出るのも苦手だ。つまり、わかりやすく言い換えるならば「誰からも嫌われないこと」をモットーに生きてきた。それが最も上手な生き方だという確信があったからだ。習字の授業で「好きな四字熟語を書きましょう」となった時に、「八方美人」と書こうとして止められたほどである。「八方美人」は良い意味の言葉だと思いこんでいた小学5年生のナスコである。

 

誰にでもいい顔をして、誰の意見にも同調している自分は、優しくて協調性があり柔軟でみんなから好かれる自分だ、と信じていた。反対意見を言ったり、友達とぶつかったりする子は扱いづらくて嫌われる。特に学校という小さな世界では。とにかくみんなに合わせることがわたしにとって一番安泰な道だった。そしてそれができる自分は有能だと思っていた。なんと浅はかな知恵で生きていたことか。

 

だけどどこかで気づいてもいた。裏を返せば「流されやすい人」「優柔不断な人」「都合のいい人」。結局は信頼されない人だと。他人と正面から向き合えない弱い人間だと。成長するにつれて、今まで自分の強みだと思ってきたモノの裏面が徐々に存在感を放ち始めたのだ。だんだん自分に嫌気がさしてきた。高校生になった頃にはもう、そんな自分が大嫌いで自信など皆無だった。だいたい高校生にまでなると「みんなと同じでなければならない」という独特の学校ムードというものは、徐々に薄まってくる。中学生の時よりももっと多種多様な人に出会う。長ーいスカートを履き続けている人。自分の好きなことをひたすら極めている人。敢えて空気を読まない人。そうした人が排除される傾向は未だ残っているものの、彼らの立場は確実に認められ始めてくる。世の中にはいろんな人がいる、それをいちいち捕まえてからかったり虐めたりするのはもう幼稚なことなのだと、(健全な精神年齢を重ねている子たちなら)気づきはじめる。

 

それでもわたしは、今まで築き上げてきた「誰にでも合わせる自分」をもはや簡単に変えることなどできなくなっていた。むしろ「誰にでも合わせられる自分」が「誰かに合わせることしかできない自分」に成り下がってすらいた。空気を読まなかったら電流が流れるシステムでもあるのかというくらい、空気を読むことに全神経を集中させて生きていた。だからわたしは憧れた。いわゆる「尖っている人」に。自分が他人からどう評価されるかということなど一切気にせずに、自分が思ったことを率直に言ったり行ったりできる人に。自分を信じろ、とか簡単に言うけれど、わたしにとってそれはすごく難しいことだ。

 

 

 

前述の通り「八方美人」が上手に生きる方法だと思い込んでいたわたしだったが、その「上手な生き方」というものの定義が年を重ねるにつれて変わってきた。小学生の時からわたしが目指していた自分像は、思えば最も苦しい生き方だったと言っても過言ではない。そう思うようになってから、誰かから嫌われることになっても自分は自分の信念に沿って生きることにした。とは言っても簡単ではない。そもそも何年もの間「他人の信念」に寄りかかって生きてきてしまったため、自分の中にある「信念の書」をしばらく開いていたなかったのだ。開いていないどころか、どこにいってしまったのかもさっぱり分からない状態で、あちこち探してようやく屋根裏部屋で埃をかぶっている姿が発見されたという具合だ。

 

まずは自分の信念とは何か、そこから始めた。そもそも自分とは何か。哲学者かよ。とツッコミたいところだが、本来ならばもっと早くこういうことを考えておきたかった。21とか22になってようやくそこまで辿り着いたのだから、まぁだいぶ遅いスタートを切ったものだ。嘆かわしいけれど時間は戻せないので嘆いても仕方ない。

 

迎合、傾倒、同化、彼らがいわばわたしの「いつメン」だったのだが、お別れすることにした。自分のやりたいことをやろう、やりたくないことは断ろう。自分で考えて自分の意志で決定しよう。正しいと思うことには正しいと言い、間違っているということには間違っていると言おう。人から好かれようと必死になるのはやめよう。自分は自分でいていいと、自分を許してあげよう。それを意識して生活したら、前よりも随分 自分を好きになれた気がするし、いろいろなことが楽になった気がする。もちろんこれは、これからもずっと努力し続けていかなければならないことだ。

 

 

 

冒頭に出てきた先輩は、すごく人間味があって好きな人物だが、わたしにとって強い影響力のある人で、人を使ったり動かしたりするのも上手い。たぶん自覚はないのだろうが、圧のようなものをかけたり空気を読ませようとしたりもする。要望に答えると、ものすごく感謝されるし褒められる。彼の魂胆は知らないが、とにかくわたしとはまるで真逆のような人だ。そしてわたしはこういう影響力のある人に弱い。すぐに流されて、自分の本意ではないのにその人の言いなりになっていることがある。だからもし前の自分だったら、ただただされるがままになっていたかもしれない。でも今のわたしは、できないことはできないと言えるようになってきた。できないと言って残念な顔をされても、耐えられるようになった。

 

そして先日その先輩から「〇〇は尖ってるからなぁ」と言われた。人生で初めて「尖っている」と言われた。これまで尖るどころか、曲線の滑らかな低反発まくらみたいに、仙台銘菓 萩の月みたいにフワフワ生きてきたわたしが、ついに「尖っている」と言われた。たぶんあの時の話の流れからして、この発言は打算のない先輩の本音だ。

 

 

 

わたしは尖った。

嬉しかった。

 

 

 

我が青春、嵐と共にあり

 

 

ドンピシャ嵐世代です。明日は会社休みます。(笑)

 

 

 

思えば 我が青春、嵐と共にあり。

 

小学生の時、校内放送で死ぬほど流れていた嵐の曲。

音楽の先生に懇願して、音楽の授業中に、合唱曲以外で何でも好きな歌を歌っていい時間を設けてもらった時、みんなで歌ったのはやっぱり嵐の「Happiness」と「Love so sweet」だった。【向かい風の中で〜 嘆いてるよりも〜】と口ずさむと思い出すのは、音楽室と当時好きだった男の子。なんて良い思い出!

 

高校受験に苦しむわたしを強めてくれた「ワイルドアットハート」。

【一度きりの人生 転がるように 笑って泣いて生きていこうぜベイベー】という爽快な歌い出し。スタンドマイクを蹴り飛ばすライブパフォーマンスが、かっこよくてたまらなかった!!

 

 

熱狂的なファンでもないけれど、大抵の曲は歌える。

語り出せばきりがない。

 

 

この度の報道はかなり衝撃的だった。なぜかどこかで「嵐は終わらない」という謎の確信があったからだ。人気が低迷しているわけでもなく、メンバーの仲が険悪なわけでもなく、なんの予兆もなかったのに、もはや当たり前の存在、一般常識的な存在である嵐が、突然姿を消すことになったからだ。それはまるで、子供の時からずっと一緒だった飼い猫が突然 失踪した時のような気持ちである。帰宅するといつも当たり前のように出迎えてくれたのに、テレビを観ていると膝の上に乗って眠っていたのに、ある日突然消えてしまった猫だ。生きているのか死んでいるのか、いつ帰ってくるのかもう帰ってこないのか、何もわからない。「解散」ではないものの、「活動休止」という言葉にはどこか不安を覚える響きがある。

 

 

ニノの言葉に「僕らはいつまでも嵐」とあったけれど、そこにとてつもない嵐らしさを感じる。バラバラになるのではないという全員一致の考えが、嵐の絆の強さを思わせる。彼らにとって「嵐」というグループのメンバーであるということは、もはや肩書きや立場というよりも生き様なのだと思う。簡単に脱いだり着たりできるものではなく、例えばリーダーが「大野智」という名前であるのと同じように、一生背負っていくもの、そう覚悟しているのだと。それも当然だ、国民的アイドルとしてここまで登り詰め、築き上げたのだから。だからこそ、今回のことを涙ながらに「申し訳ない」と言う。

 

でも「普通の生活」がしてみたいという願いは、健全だとわたしは思う。そしてそうする権利もある。ただ、彼らがこれから「100%の普通の生活」をするは恐らく不可能だ。なぜなら彼らは「いつまでも嵐」だからだ。活動を休止したとしても、たとえ芸能界を引退したとしても、「嵐」であることは付きまとう。それはどうしようもない事実。いわば覚悟の代償だ。それでも彼らなりの「普通の生活」をぜひ味わって欲しいし、楽しんで欲しい。

 

仕事とはいえ、それ相応の給料をもらっているとはいえ、お金が全てではない。その点でこういう業界のアイドルやアーティストたちがファンに与えるものの大きさは計り知れない。たぶん人間の限界を超えている。いわゆる「お金では買えないもの」をたくさん犠牲にしている。大きく言うと、時間とか家族とか愛とか。普通の人が普通に手に入る幸せが、ずっとお預けの状態なのだ。それを欲することは何か間違っているだろうか。自然で健全な欲求ではないか。だから、きっとそういうものを取り戻した時、やっと彼らは人間になれると思う。これまで与え続けてきた分、今度は自分たちが受ける側に回って欲しい。人間として受けるべきものを受け、手に入れるべきものを手に入れ、人間らしく生きて欲しい。

 

 

それが、これまで嵐からたくさんもらってきたわたしの願いだ。