斜め上からナスコ

言わなくてもいいことを言いたい

友達ができた

 

 


今までの人生、私には友達という存在がなかった。そう言うと少し寂しく聞こえるが、表現を変えると“本当の友達”がいなかった。どんな事でも投げかければ相手がそれをキャッチして、頷いて共感してくれたり、もしくはあーだこーだ意見を言ってくれる、それに基づいて自分も安心したり考えを変えてみたりする。そういう綺麗なキャッチボールのようなコミュニケーションをほとんどとってこなかった。元を辿れば家族とそういうやりとりをしてこなかったので、コミュニケーションなるものを知る術がなかった。

 

 

 

他者とのコミュニケーションがいかなるものかを知らなかったので、当然 人と関わるのは子供の頃から苦手だった。自分の思ったことを素直に言えない。聞くことは出来るが、聞いたことに対して疑問や反論があってももちろん言えない。怖くて言えない。自信がなくて言えない。言えない理由は様々あったが、とにかく、言いたいことが言えないというジレンマでモヤモヤする。他人と一緒いるとモヤモヤするばっかりだ、他人=ストレスだ!と脳が覚えていった。だから1人でいる方が好きだし、自分の世界に篭もるのが1番のリラックス方法になった。ただ、だからといって特にこれといったアイデンティティやポリシーを強く持っていたわけではない私は、周りに合わせることだけは誰よりも上手くできた。だから学生時代、教室で孤立したことは無い。でも1歩学校の外へ出れば、 1人で過ごすことを何より優先した。

 

 

 

親友は欲しいけど、作る術がわからないし、なぜ自分に親友がいないのかも正直分からないし、まぁそんなことをあれこれ考えるくらいなら1人で映画でも観に行こうくらいの気持ちでしか無かった。諦めていた。今思えばそれもそのはず、対他人とのコミュニケーションのとり方を知らなかったからだ、知ろうとしなかったからだ、と大人になってから理解した。

 

 

 

そういうわけで、私の話し相手は常に私自身の中にいた。ボールの壁打ちだ。自分の心の声と対話をする。常に自問自答。自分でボケて自分でツッコむ。(これだけ聞くとやたら不気味だが、おそらく誰もが普段 から意識せずともそれなりにやっていることだろう。)その一部始終を残しておきたい私は、私以外誰も見ることが許されない極秘日記帳に書き納めていった。そのようにして私は常に喜怒哀楽を、目の前にいる他者には発信せず自己完結させた。これが私のコミュニケーション方法だった。私が本音を語るのは日記の中でだけで、それ以外の媒体を通して語られることはほとんどが戯言に過ぎなかったと言っても過言ではない。

 

 

 

 


20代の折り返しを過ぎた頃、突然 友達と呼べる存在が現れた。これまで生きてきた中で最も“親友”の領域に近い友達だ。彼女とはそれまでも知り合いではあったが、とある出来事を機にすっかり打ち解けた。彼女とはまず感覚や考え方のおおまかなところが似ていた。そして彼女自身が自分のことを包み隠さず素直に話し、私のことも素直に聞き出し、それに対して思ったことを素直言う人だったのが大きいと思う。最初はその素直さにつられて言ってしまった、みたいなことの繰り返しだった。そのうち、この話ならしていいか、この人になら話していいか、というふうに感覚がシフトしていった。

 

 

 

私がこれまでの人生ずっと、ひたすら文字にして日記にぶつけてきた言葉を、今私は安易に自らの声に乗せ、ひとりの人間の耳に届けているのか、しかもその言葉が相手の脳内で処理され、そらによってひとりの人間が笑ったり怒ったり。はたまた今度はその口から返ってくる言葉がこの私を鼓舞したり、狼狽えさせたりしているのかと思った時、驚愕した。これが会話か。これが友達か、と。ただの定型文のような言葉の羅列を投げかけ合う話し方とは違う。生きた、温度のある言葉が常に行き交う。私という人間を認知し、理解しようとしている生物が目の前に居る。このことへの実感を持てるようになるまで、少し時間が必要なくらいだった。実際のところ、初めに“この人とは話しやすいな”とただなんとなく思った時から、このはっきりとした実感に至るまでは2年くらいあったと思う。

 

 

 

そうやって、他者とのコミュニケーションのとり方を彼女から学んでいった。まるで猿みたいな言い方だけど、でも表現は決して間違っていない。私はこの2年間、人まね小猿だった。彼女から人間関係の築き方を学んだおかげで、彼女以外の人間との関わり方さえ変わってきた。自分の考えや感情を他者に投げてみることに少しだけ面白さを感じてきた。物凄い成長ぶりだ。今までひたすら自分の中で煮詰め、自分好みに味つけをして、自分だけで楽しんできた料理を、他の人にも食べてもらうような気持ちだ。自分の味を誰かにみてもらうのは少し緊張するけれど、食べた人は『あ、わたしこの味好き!』とか『へぇ、初めて食べる味だなぁ』とかと言ったりする。するとそのリアクションを見た時の自分の感情が面白い。喜び、高揚感、時には孤独を感じるし、カチンとくる時だってある。今度は自分が相手の料理を味見する。どうして今まで自分の料理しか食べてこなかったんだろうと思う。自分には出せない味、考え抜かれた究極の味。どうしたらこんな味が出せるの?何を使ったの?どのくらい煮つめたの?どんどん興味が湧いてくる。私も今度真似してみようと思ったりする。こういうことをしている時、“あぁ私、ちゃっかり人間をやってるなぁ”と思うのだ。

 

 

 

そんな“友達”ができてから少し経って、最近、感じ始めたことがある。昨日、私は日記にこう書き留めていた。『自分をさらけ出せる場所がどこにもなかった時の控えめさに戻りたい。さらけ出せる場所を知ってしまった。知って良かったし、手離すつもりはないけれど、でもあの頃の控えめさと慎重さも手離したくはない。』

 

 

 

自分にとって心地の良い人間関係を見つけてしまってから、私はどうやら羽を伸ばしすぎた。一度 広い家に住んでしまったら、もうそれより狭い家には住めなくなる、この感覚に似ている。快適なコミュニケーションを知ってからというもの、自分の家族や今まで周りにいた人たちがここまで会話しにくい人たちだったかと愕然とする時がある。どうして今まで普通に話が通じていたのか全く分からなくなることさえある。これが怖い。贅沢を言い始めたのだと思う。今までは自分だって、アウトプットが下手な、何を考えてるのかわからない人間だったのに。自分の味つけを他人に味わってもらう面白さなど知らなかったのに。教えてもらって初めて、人と関わるのはこんなに楽しいんだと知ることが出来たのに。知った途端に突然、一段上から人間を見るようになった気がするのだ。ーあぁ人と話すことの面白さを知らないんだなこの人は。あの人は何を考えてるかよく分からないけど、まぁもう大人なんだし、いちいち聞かれなくてもちゃんと自分の言葉で話さないとね。この人とはちょっと会話のペースが合わないな。本当にちゃんと深く考えてるのかな。ー

 


コミュニケーションのとり方で人を品定めしている自分の声が、時々どこかから聞こえてくる。

 

 

 

自分を重視しない控えめさ、相手に合わせる辛抱強さ、その場を気まずくさせないための慎重さ、誰も置いてけぼりにしない思いやり。“友達”を知る前の、誰かに何かを言うのも聞くのも怖かった一人ぼっちの私がずっと大切にしてきた空気を、今は時々、自らの手でぶち壊しに行っているような気がしてならない。自分をさらけ出しても確実に受け止めてくれる人がいる、というこの絶大な安心感の上にあぐらをかいて。

 

 

 

それを感じ始めてから、私は自分の日記を開く回数が増えた。一度立ち止まって、一人になって、自分を見つめ返さなければならないところにまたやって来たのだと思う。人と関わること、対話することの楽しさや面白さや大変さを知った。知らなかった時もあった。知らなかった時の気持ちが私にはわかる。自分らしくありたいし、誰のことも置いていきたくない。どんな人のことも重んじることができる人間になりたい。でも、コミュニケーションにおける自分の成長を誇らしくも思う。この楽しさを知って欲しい。

 


私はどこに向かえばいいのだろうか。考え続けたい。